
夫、石井亮一からのご報告
正子が亡くなり喪中のご連絡に驚かれた方も多くいらっしゃるかと存じます。
正子の死のことを多くの方々にもっと早くお知らせしなければならないところではございましたが、悲しみのうちに年末になってしまい喪中のご連絡をもってお知らせすることになってしまったこと、お詫び申し上げます。
正子が死に至った病について、正子が生前どのようなことをしていたか、そして正子を失った今、夫である私が感じていることについて、ご報告申し上げます。
① 正子が死に至った病気のこと
今から20年以上前に遡ります。当時、私たち家族は北海道白糠町に住んでおりました。毎年の町民健康診断を受けた際、正子の肝機能の数値が極めて悪くなった年がありました。本人は「なんでだろうなぁ、まあいいっか」くらいで放っておこうと思ったようでしたが、その話をした看護師をしているママ友から真顔で「大きな病院でちゃんと受診したほうがいい」と忠告いただきました。そこで「原発性胆汁性胆管炎」と診断されました。
この病気は難病指定されている病気で、対症療法以外の治療法、原因がわかっていない病気です。抗ミトコンドリア抗体が陽性化する自己免疫疾患とのことですが、私も、たぶん正子も病気のことを十分理解していません。そのように診断されても、胆汁の排泄を促す薬や肝臓のサプリメントを毎日飲むとか、2ヶ月に1回の血液検査と1年に一回肝臓のCTやMRIを撮るくらいで、健康者と何ら変わらない生活をしていました。
ただ、当時も医者から「この病気は肝硬変がだんだん進行していき、肝臓がんになることがある」と通告されていました。
そのような状況が大きく変わったのが去年、2021年の9月のことでした。いつものように2ヶ月に1回の血液検査を受けた際、肝癌マーカーが上がっていました。そこでCT検査をしたところ肝臓がんが見つかりました。ただ、当時の正子はあまり落ち込む様子もなく、「先生が“次の受診の時、できれば家族の方も一緒に来て"と言ってるんだけど、おとうさん来てくれる〜?」と言っていました。医師により病状と今後の治療方針が示され10月より、がんの治療が始まりました。まずは全身的抗がん剤を服用し、癌を小さくしてから焼き切ってしまう、というプランで治療を開始しました。
抗がん剤はとてもよく効いて、実際にがんは小さくなりました。しかし、正常な肝細胞にもダメージ強く、たぶんアンモニアが血液を流れ脳にいったらしく、日常の当たり前のことへの判断力が鈍るなど、生活にも支障が出てしまいました。(「肝性脳症」というようです)。すぐに医者と相談した結果、直ちに抗がん剤をやめ、たちまち症状はおさまりましたが、予定していた治療方針の変更を余儀なくされました。Bプランとして提案されたのがカテーテルで肝細胞がんの局所に抗がん剤を入れる治療法です。11月末に1週間ほど入院し治療を行い、すぐには癌マーカーの数値は下がりませんでしたが、だんだん少なくなっていったため、ある程度の効果はあったと思われます。
その後、2週間に1回、通院し血液検査などで肝機能、がんマーカーの検査などをしていきました。むくみが徐々に進行していきましたが、基本的には普通の生活の質を維持しながら日々を過ごしていました。
この間、セカンドオピニオンを求めて主治医に紹介状を書いていただき、別の病院の医師の話を聞いたりし、この病気が完治するには肝移植が唯一の方法であると認識するに至り、息子二人をドナー候補としての生体肝移植の手続き、脳死肝移植登録の準備を進めていきました。
5月21日に倦怠感が強く、病院に行ったところすぐに入院するようにいわれました。私は入院してもいつか帰ってくるものと思い込んでいましたが、今にしてみれば、肝機能が改善する決定的なことをしない限り、すなわち肝移植をしない限り退院することはできないと理解すべきところでした。6月4日、個室に移ったことにより家族3人で時間制限を設けて面会しました。病院から帰ってほどなくして血圧が下がったと連絡あり、付添として私が病室に入り、21時42分帰らぬ人となってしまいました。コロナ禍のなか、2週間の入院期間の内、会えたのは入院直後に主治医から今後の治療等の説明を正子とともに受けた時と最後の日だけでした。亡くなる3日前までLINEで会話をしていましたが、返事が来ないと心配しているうちに6月4日を迎えました。
② 正子の好きだったこと
正子は好きなことがはっきりしていました。星の観察、美術鑑賞、泳ぐことの3つは生涯かかわり続けていました。本棚にもこの3つの分野の本がたくさん並んでいました。
星の観察は若い時から大好きでした。頭がよかったら天文学者になりたかったといっていました。OL時代には奈良県大塔村にあるプラネタリウムで子供たちに天体望遠鏡で見える夜空の解説をする「星のおねえさん」をボランティアでしていました。結婚して北海道に住むようになった時には、「北海道(の田舎)は、ほんどうに星がよく見える」といって家から車で20分くらいにある標茶町の多和平によく行きました。息子が通っていた北海道の白糠町の小学校のPTAの行事で夜空の観察会では講師をして「星のおばさん」を務めました。教室でやったスライドを使った座学で使うために、白糠町のお墓で夜通し星の写真を撮っていました。というのは、白糠の墓地は少し高台にあり360°遮るものがなく夜空が撮れるからです。最初は私も付き合っていましたが、シャッターを開放して長時間の撮影ですので付き合いきれず、途中からは一人で夜中に長時間お墓の真ん中にいました。
美術鑑賞も大好きでした。よく展覧会に行っていましたし、本棚には図説がたくさんありました。北海道から千葉に移ってからは、上野に電車1本で行けるので展覧会にはよくいっていました。東京芸術大学美術館で監視のバイト仕事を見つけました。美術館の監視は長時間の立ち仕事ですので足がむくみやすく、昨年9月に病を得てからはいよいよ足のむくみがつらくなり、シフトから外れていましたが、とても残念そうでした。美術作品のそばにいて、展覧会の前に監視員対象の作者による説明会があるのですが、とても楽しみにしていました。
泳ぐことも大好きでした。北海道にいたときはあちこちの近隣のプールにいっていました。標茶町営プールで監視の仕事をはじめ、2年目からバイトリーダーのようなことを任させ、監視マニュアルを一生懸命作成していました。また、釧路市水上安全法赤十字奉仕団に所属し救助の講習を受けていました。泳ぎを通しで知り合った方々とは楽しそうにお付き合いさせていただいていたようです。
千葉に移住して早々、千葉県にある大きなプールの受付のバイトを始めましたし、途中から品川区営八潮学園プールの監視の仕事をつづけました。病状が進む中、「1日でもいいから仕事に復帰したい」と言っていました。むくみによりシフトに入ることがつらくなったとき、病気と闘う目的は再び八潮プールサイドに立ち、監視をする自分を再現することだったようでした。それが叶わなかったのはとても残念でした。
5月に入り足のむくみが重くなり、自宅から駅までの1kmを歩くのがきつくなってからもプールにはよく行っていました。入院する3日前にも自分で車を運転しプールに行き「歩くのはしんどいけど、プールで泳ぐとむしろ体が軽くなる」と言っていました。
プールに行って泳いでいた人が3日後に入院し、その2週間後に亡くなるとは思ってもいませんでした。20年にわたって原発性胆汁性胆管炎が正子の少しずつ肝臓を傷め、肝細胞がんが引き金を引き、肝機能が低下していき正子の命を奪ってしまったということなのでしょう。
③ 正子亡き今、私にある"空"の感情
最後に、勝手ながら私の今の思いについて書かせていただきます。
正子が亡くなってから、告別式、49日法要など悲しみの中、あわただしく日が過ぎていきました。しばらくして痛烈に感じたのは正子の「不在感」でした。仕事から帰宅しても、ずっと一緒にいた話しかける相手がいないという生活はこれまでにはないものでした。「存在感」という言葉はよく使いますが、「不在感」という言葉があるかはわかりません。この感じは、「あれ」に似ているかもしれないと思いました。
以下、私たちの仲人であり、私の高校からの大切な友人であり、正子にとっては会社の同期入社であった中野民夫くんの大学の卒論「般若神経私論」をお借りします。
「あれ」とは般若心経の「空」のことです。般若心経には「色即是空、空即是色」という有名な文の前に「観音さまは、すべての存在は空であることを見抜き、すべての苦厄から解放された」とあります。「世にある目に見えるもの(これを色といいます)は空であり、空は目に見えるもの(色)としても存在する」「感じたり(受)判断したり(想)意欲したり(行)知ること(識)も空であり、空は受想行識という形で存在する」
正子は死によって目に見えるもの(色)としては無くなってしまいました。しかし、私は痛烈にその「不在」を意識させるそのもの、「不在」している存在を、空と言っていいのではないかと思うようになりました。
亡くなったあと、これも高校からの大切な友人であり、愛知で在宅医療のパイオニアとして活動している岡崎由揮くんからLINEにメッセージをもらいました。「正子さんは治療は辛かったし、家族を残して逝ってしまうのも辛いけど死によって魂は不自由な肉体から離れ楽になったのではないでしょうか。魂は亮一君や息子さんと今まで通り一緒にいますよ。家族は折に触れて正子さんを想い出すことによって魂はいつまでも皆さんのそばにいることになりますよ」。岡崎くんは医師としてたくさんの死を看取ってきたなかで、死に対してこのメッセージにあるように感じるようになったと書かれていました。
空として、魂として私の傍らに正子がいるのだと感じることによって、その不在のなかで生活していくことが始まりました。この状態を受け入れるにはまだ時間がかかりそうです。正子の不在が空であると思うようになってから、かえって色としての正子との付き合い方がおかしくなってしまっています。写真を送っていただいた方へのお礼が書けなかったり、正子の写真を整理してUSBで送っていただいたのにそのUSBを開くことができなかったり、私の中で混乱が生じているようです。目に見えるもの(色)としての正子に接することがおそらく、辛くなっているのでしょう。それも時の経過が混乱を解消してくれることと考えています。
冒頭にかいたことを繰り返します。
皆様におかれましては何かの機会に正子のことを想い出していただきたいとお願いいたします。皆様や私たち家族が正子の記憶を失わなければ正子の魂は私たちの傍らで生き続けるものと信じております。このウエブ・サイトが正子を想い出すきっかけになれば幸甚です。
