

麦(ばく / 次男):
と、いうことで、家族3人がそれぞれどの年賀状がお気に入りかを話しながら、おかあさんや家族の思い出を話す場を設けました。
まずはお父さんから、石井家の年賀状とはどんなものでしたか…?
亮一(りょういち/夫)
毎年年末になると、「来年の年賀状、どんなイラストにしようか…」という、正子のため息が聞こえていました。正子にとっては、どんな年賀状にしようかと楽しみでもあり、プレッシャーだったようです。身内でいうのもなんですが、年賀状はおおむね好評で、いただく年賀状に「毎年楽しみにしています」と添え書きをいただくこともあり、ハードルが高くなっていたようです。
麦
お母さんの年賀状がファイルにまとまっていたんだけど、これがおよそ30年分くらいありました。結婚前から自分で作ってたのかな?
亮一
詳しくはわからないけど、たぶんそうなんじゃないかな。
結婚前の年賀状が1枚だけ残っていて、これがおそらく1983年、まだ僕と結婚する前のものでした。
健(けん / 長男):
たぶん大阪でOLをやってた頃のだね。
たしか、「新年早々不気味な年賀状を送ってくるな」と先輩に怒られたんだとか。
麦
たしかに、これは不気味だね…(笑)
上目遣いで睨まれるからね。何か恨みでもあったんじゃないかと思ってしまう。

健
当時は版画で作ってたんだな~
亮一
そうだね。それこそ会社の刷り機を借りて作ったとか言ってたかな。
麦
それから結婚までの6年分の年賀状は見つからなかったので、
もしお持ちの方がいたらプレミア品だね。見てみたかった。
健
それで、お父さんと結婚した翌年、1990年から、「石井正子」さんとしての
年賀状が始まるわけですけども。
麦
ちなみに健はどの年賀状がお気に入り?
健
ひとつには選べないけど、まずはこれかな。

麦
あああ!これは気合入ってたね。2001年。
健
まだ年若い自分にとって長い回文にシンプルに驚いた。
亮一
作品関係ないじゃん!
健
まぁね。(笑)当時はお母さんが作った回文なのかと思ってた。
ただ、2001年で宇宙の旅というのも、映画好きのお母さんらしいかと。
あと、この年賀状の制作過程で、色塗りの手伝いをした気がする。
なんか、その時に使っていたボールペンをふと思い出した。
麦
2001年ということは、健が9歳の正月ですね。当時の思い出は何かある?
健
小学校3年生の冬だろうか。
ちょうど、小学4年生から部活と受験勉強を始めたから、
暇な小学生の最後の年ってイメージかな。
亮一
なるほど。そうだったかも。
健
ウチにはなぜか、プレイステーションの「ダンスダンスレボリューション」があって、
それをすごいやってた記憶がある。
麦
たしか、町のお祭りの屋台で子供向けダンスダンスレボリューション大会があって、それで優勝してたよね。
健
あったな~。そんなことも。
亮一
ほかには、お気に入り作品はありますか?
健
あとはね、この2つかな。


亮一
ひとつは1996年、健が5歳のころの年賀状かな?
健
そうです。子供の頃過ぎて、正直当時のことは覚えていない、、、、
が、お母さんが割とこの年賀状お気に入りと言っていたような気もする。
麦
そうなんだ。
健
ネズミ年だから、思わずネズミのイラストで攻めたくなるんだけど、
そこを敢えてネズミは書かず、壁の穴でねずみを連想させる感じが大人っぽくて良いと思った。
亮一
もうひとつが、2018年、割と最近だね?
健
そうですね。これはシンプルに絵がいいと思いました。
亮一
市川の家の前の橋の写真だから、これは僕と正子ちゃんが北海道から千葉に引っ越してからの年賀状だね。
健
僕も麦もすでに就職しており、制作過程がどんなだったかはわかりません。
ただ、ちょうど当時、僕も美術・アート鑑賞が趣味になりつつあって、
お母さんとは結構そんな話をした気がします。

年賀状のモチーフとなった街並みと健の後ろ姿
亮一
お次は、麦のお気に入りを教えてください。
麦
はい!俺はね、最近の作品ですが、これがいいね。

健
おお。これは確かにね。
麦
これ、知り合いからの評判も良かったのよね。
子年を連想させるチーズを日の出にしちゃうっていう発想がすごい。
たしか、千葉に引っ越してきてからも、東京の絵の教室の先生にイラストを教わってたと思うんだけど、
実は1993年と、イラストの着想はすごく似てるんです。(93年は酉年だから目玉焼き)
ただ、17年の時を経て確実に画力が進化してるんだよね。

亮一
3年前になるけど、当時はどんなでした??
麦
そうだね、2020年といえば、ちょうどコロナが始まった年でしたね。
当時、俺は東京のインターネット広告代理店の新潟支社に勤めてたんだけど、ちょうど今の会社に転職したのがこの年の10月だったなぁ。
亮一
そんなこともあったね。今はどうなの?
麦
いや!おかげさまで!
縁もゆかりもなかった新潟だけど、今はこの環境が好きになっていて、
で、あればもっと、新潟にどっぷり浸かった仕事がしたいと思ったりもしまして、
いまは地元の広告代理店に勤めています。
健
それはよかった。
麦
年賀状の話に戻るけど、この日の出のサンプルになっている6ピースチーズがいつも家の冷蔵庫に入ってて、酒のつまみにしてましたね。
亮一
ふふ、今でもつい買っちゃいます。
健
そのほかのお気に入りはありますか?
麦
選びきれないけど、これはいいよね。

亮一
2002年、午年だ。
麦
そう。シマウマのやつ。
この年、おかあさんはまったく違う下書きをいくつもかいて、どれにしようかと悩んでいたのを傍目でみてました。今でも没になった案のイラストがいくつか残ってます。
亮一
馬飛びしてるやつとかね。あれも良かったんだけど。
麦
でも、結果的にこれになってよかったと思う。
シマウマの絵もすごい上手だし、縞々模様にあわせて2002を入れちゃうあたりとか、センスの塊だと思う。
健
お母さんと同じ、広告業界で働く麦としては、このセンスは引き継ぎたいところですね。
麦
ははは、、、
あと、2005年も好きでした。

亮一
ニワトリ…?WANTED…?ちりトリのイラストが似てるっちゃ似てるけど…?
麦
実はこれ、裏の切手部分が正解なんですよ。
こういうちょっとした宝探し的なやつも、好きでしたね。。

健
では最後に、一番長い間年賀状を見てきたであろう、お父さんのお気に入りを。
亮一
はい。発表します。こちらでございます。ジャジャン!

健
2021年、丑年の年賀状ですね。
亮一
うん。去年ですね。
これ、千葉の新居の2階の窓から僕と正子ちゃんが外を眺めている、という風景なんです。
正子ちゃんが「まあね」「そうね」と書いたのが少し意外だったけど。
二人とも人生の盛りを過ぎて二人で「まあね」「そうね」などと言いながら
これからの長い高齢期を過ごしていくんだなという感じを共有しているんだなぁと、
少し意外に思いました。
残念ながら長いと思っていた高齢期は、その後1年半で終わっちゃったけど。
麦
実際には富士山は見えないけどね。真間川という川が目の前を流れていて、
夏は江戸川の花火大会がほぼ正面に見えるんだよね。


亮一
ここは正子ちゃんのお気に入りの場所で、ここに正子ちゃん専用の机を置いてよく本を読んでました。仏壇はいま、この窓の下にあります。
健
その他はいかがでしょうか?
亮一
あと、この2つはやっぱり思い出に残ってるね。


健
ひとつは1992年、僕が生まれた翌年で、もうひとつは1999年ですね。
麦
初めて健が登場した年賀状と、俺が登場した年賀状ってことかな。
俺は1994年生まれだから、初登場まで5年かかったんだな。
亮一
やっぱり、家族の骨格ができた感じがするのですごく懐かしさを感じます。
なにより、僕のことをここまで簡単に、かつ分かりやすく描けるのは正子ちゃんだけだろうね。

麦
ということで、ここまで年賀状について語ってまいりましたけれども。
亮一
そうだね、改めて思うけど、やっぱり正子ちゃんの年賀状は、石井家を代表するアイデンティティの一つだったと思います。
健
毎年、我が家の年賀状を楽しみにしていただいた方もいたみたいだしね。
亮一
そういう意味で、およそ30年以上にわたって石井家の年賀状を描き続けてくれた正子ちゃんには改めて「ありがとう」だね。もちろん、年賀状だけじゃなく、これまで一緒にいてくれたことに「ありがとう」なんだけれども。
麦
このタイミングで言うことではないけど、2024年以降はどうしようかね。
健
そうねぇ。。石井家にとって、かなり重要な問題だね。
亮一
まぁそれは本当に、おいおい決めるとして。
まずは、改めて正子ちゃんの年賀状を皆さんに見ていただける機会を作れてよかったかな。
よく「形はなくなっても、誰かの思い出に残り続ける限り、人の魂は生き続けられる」っていうけれど、ほんの心の片隅にでいいから、皆さんにも正子ちゃんのこと、年賀状のこと、ぜひ覚えていていただきたいです。
麦
そうだね。
改めて我々3人でこういう話ができてよかった。
健
じゃあ、皆さんにとって来年が良い年になるように祈りましょう。
亮一
ありがとうございました。

2022年1月 4人で撮った最後の家族写真